新建築1945-1955
[建築] 新建築1945-1955 原爆下の戦後10年
新建築1955年8月号を見ていたが、「新建築」も昔は社会の動きの中で建築を位置づけていたことがよく分かる。現在の建築ジャーナリズムがほぼ「社会性」を失って、「ファッション誌」化してしまったことは時々書いている・・・(「ファッション」が悪いと言う意味ではないが、建築には「表層」だけでは済まされないものがある。とは言え、「衣食住」どれについても同じことが言えるが)。
「新しい前進のために」と言う扉から始まって、「現代史の教訓」・「建築家の反省」・「再出発の方向」と言った記事に続いて、「日本人の生活と住まい」と言う特集が始まっている。米国の空爆で一面の焼け野原となった、日本の都市の航空写真から始まっている。
1945年の冬を越す三角住宅の写真、戦後のバラックと続いている。その後に続く記事の中で特に興味を引かれるのが、「プランに見る住宅の10年」と言うもので、same scale の住宅プランが並んでいる。何十年か後に「建築文化」が同じようなことをしていた記憶があるが・・・。
最初はMIDの「プレモス炭労住宅」、他にレイモンドやRIAがあり、小泉誠氏や「東京ハウス」などが盛んに取り上げている「九坪ハウス」の原型、増沢洵の自邸などが取り上げられている。
最後が武谷三男と浅田孝の対談、「原爆時代と建築」と言うもので、長崎の被爆地の子どもの写真の後に、白井晟一の「原爆堂」や丹下健三、イサムノグチなどの作品が並ぶ。余りにも現在の「新建築」との違いに驚かせられる。何に驚いているのか・・・。
[Days]分かりにくい京王線
【PTT-B】時間ばかりが過ぎてゆく。今日は忘れ物がないように準備万端。時間が遅くなったので、代々木からTAXI。
■学校のあと、「専攻建築士」の登録をする知人の事務所に書類を届けに。幡ヶ谷に行くために、最初に新宿から「新線」に乗らずに笹塚を過ぎて代田橋で気付き明大前から戻る。帰りは下高井戸から玉電に乗ろうとして、明大前の手前だと勘違いして急行に乗って明大前から各停で一つ戻ったが、明大前の先だったので代田橋から下高井戸へ。京王線が分かりにくいのか、こちらがボケてきたか!
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- Published:
- 11.18.05 / 11pm
- Category:
- art
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