この世の名残、夜も名残・・・

お初
〜吉田蓑助の舞台〜から・撮影=青木信二氏:兎に角人形の動き、しぐさが素晴らしい
ROCK曽根崎心中
ROCK曽根崎心中のサイトより:絡みの表現もなんとも艶っぽい・これ人形!
[design]曽根崎心中
半蔵門の国立劇場へ文楽を見に、出し物は「小鍛冶」と「曽根崎心中」。
文楽については昨年書いているので(http://d.hatena.ne.jp/udf/20050510)一般論は省略。
「小鍛冶」は「時代物」、「曽根崎心中」は「世話物」と言うことになる。
■人形は、1〜3人で扱うが「その他大勢」的な人形以外は、基本的に三人で扱う。
主遣い(おもづかい)」と言うのが「頭(かしら)」と「右手」を扱い、「人間国宝」が3人いるようだ。「曽根崎心中」の「お初」を操る吉田蓑助氏もその一人(「徳兵衛」を操る予定だった吉田玉男氏もその一人だが、体調を壊して代役は桐竹勘十郎氏。確かに八十半ばを過ぎての仕事としてはきつそうだ)。左手の担当は「左遣い(ひだりづかい)」、両足の担当は「足遣い(あしづかい)」で、見ていると結構大変そうな役割、床を脚で鳴らしたり、「狐足」というものでは非常に早い速度で足を動かしたり、若くないと出来ない役割と思えた。
■「小鍛冶」は刀を打つ鍛冶の話だが、「相槌」が刀を打つときのシステムの一つで、刀匠が打つものを「親槌」、合い方が打つものを「相槌」と言うそうで(一般的に使う「相槌を打つ」とはここから来ているようだ)、「小鍛冶」ではその相方を「稲荷明神」が受け持ち、「小狐丸」と言う刀を打ち上げると言う話。(「京都冥所図会」と言うサイト参照⇒http://www.ne.jp/asahi/meitei/pedantry/field/rakutou/aizuchi.html 
■「曽根崎心中」は良く知られた近松門左衛門の作になる「心中もの」で、映画も梶芽衣子+宇崎竜童の主演で作られているが、2003年に「ROCK 曽根崎心中」と言うものが「宇崎竜童・尾崎亜美+桐竹紋寿・吉田文吾」という顔ぶれで行われている⇒http://www.ryudo.jp/sonezakishinju2003-03.html映像を一部見ることができる)。文楽と言えば、「義太夫・三味線・人形の三位一体」と言われているので、勿論それを文楽とは言わないが。「近松物」を現代風にアレンジと言うことか。
話としては典型的な「心中物」なのだろうが、そこには日本人固有の情感のようなものが漂っている。「金持ちの横恋慕を振り切って好いた人と添い遂げる・・・」、今ではどこを探しても見つからない「情感」。金さえあれば何でも買えると豪語する輩が闊歩する世の中で、金で何でも売ってしまうのが普通の「スタイル」と言う世の中になってしまったようだし・・・。
■天満屋の段では、梅の文様(梅鉢紋)の暖簾が下がった前で話が進み、よくは見えないが「お初」の着物の一部にも梅の模様が使われている。勿論、「天満屋」・「天神の森」と天満宮縁の筋書きで、「梅鉢紋」と言えば「菅家」の紋、となっていろいろ引っ掛けてある、まあこれも日本文化のウイットか?敵役の「油屋九平次」は「油屋」の「あぶ」と「九平次」の「く」で「あぶく=泡」のようなくだらない男、と言うことで名前が付いているとかいないとか・・・。
その他の参考サイト:
「beats21」⇒http://www.beats21.com/ar/A01052406.html(2001年のライブレポート)、
「天満屋の段(愛媛大学公開講座)」⇒http://www.h.ehime-u.ac.jp/~english/machi_engeki_noma.htmlなど
兎に角、人形の動きが驚異的、是非一度は見ておきたい日本の文化の一つ。

〜天神森の段の一節〜
この世の名残、夜も名残。
死にに往く身をたとふれば、
あだしが原の道の霜。
一足づつに消えて往く、夢の夢こそ哀れなれ
・・・
長き夢路を曽根崎の、
森の雫と散りにけり 

座席表
入場料:1等5700円、2等4700円、3等1500円ーほとんどが1等となっている
[Days]002’案
momo-house】午前中、水周りの検討。浴室に風情がないのではないかということで(確かに!)、温室に面して浴室を作る案を検討。いろいろ難しい部分も出てくるし、生活観の問題もあるのでクライアントとよく相談せねばならない部分。
■昼食後、3人で文楽に行く。国立劇場は1966年に竹中工務店に所属する岩本博行氏の設計(http://www.takenaka.co.jp/t-file_j/b_first/kokuritsu/index.html)。これは運営する側の責任かもしれないが、入場するまでの時間外で待たされる(文楽を上演している小劇場の場合)。冬の寒い中、客を何十分も寒風に吹かれて待たせる劇場とは何なのだろう。劇場はこれから遭遇する非日常的時間・空間への期待を暖めるために、その前段階の空間は心地よくなければならないし、鑑賞後の余韻を愉しむための空間も用意されていなければならないはずなのに、兎に角ひどい運営と言うしかない。このような「貧困」な「文化」があっていいはずがない・・・。風邪を引くではないか!


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