白井晟一
[建築] ピカはひとがおとさにゃ
おちてこん
今年も広島に原爆が落とされた日がやってきた。原爆の投下についても、あるいは核武装についても、政治的にいろいろな立場の人がいると思うので、そのこと自体についてのコメントは控えることにしておく。
表題の「ピカはひとがおとさにゃおちてこん」と言う言葉は、昨日のTV「美の巨人たち」を見ていた人はすでにご存知だと思うが、丸木スマ氏の言葉。丸木スマ氏は「原爆の図http://www.aya.or.jp/~marukimsn/index.htm」の丸木位里氏の母親で広島で被爆している。
昨年も書いたが、「原爆」と「建築」を考えるとき、一般的には丹下健三氏の「Hiroshima Peace Center」と言うことになるが、もう一方で白井晟一氏の「原爆堂」計画も建築関係者の中では良く知られている。特にモノクロ表現で、水面に原爆堂が映るパースは印象深い。
手元にあるのは、谷田建築事務所から譲り受けた「新建築」1955年4月号で、この「原爆堂」が9頁にわたって掲載されている。写真・図面は画像を見ていただくとして、その中にある白井晟一氏の「原爆堂について」と言う文章を引用しておく(1階平面図の頁にある文章―40頁)。
原爆堂について 白井晟一
私ははじめ不毛の曠野の中にたつ堂を考えていた。惨虐の記憶、癈墟の荒涼たる連想からであつたとおもう。しかし構想を重ねてゆくうちにこのような考え方の畢竟は説話的なニュアンス・メイクの偏執から自由になつて、観念・典型の過去をきりはなした。自分の中の、可能性だけを集約して造型を純粋にしたいとおもう努力にかわっていつた。メモリイを強いる造型でなく、永続的な希待の象徴を志すことになったといえるかもしれない。人間社会の不朽な共存への祈りとこのような自分のなかの造型発展とは、素直にむすんだ。
このたてものは黒花崗を貼つた直径5間のまつくろな円筒が、眼にみえぬほど静かに流れている澄明な水の中にたち、1辺12間の方堂を支えているとみえるが、軸としてのシリンダア全体と梁としてのスラブ全体が一つの鋳型であって架構構造ではない。アトミック・ハンマアも試験の時代を通過した今日では、私の考えてきた原理向上の進展ものぞむなしとしない。いずれにしても経済や工法の上から、今後も構造担当の坪井研究室とともに研鑽をつづけてゆきたい。
堂は美術館(本館)のエントランス・パビヨンと地下道でむすばれている。円筒内壁に沿つたスパイラル階段でギャレリイに導かれ、内部採光はドオム円蓋と光路を経た間接外光に人工光線で補う。
さてこの計画を実施する組織はまだできているわけではない。原爆図をかいて世界の人びとを感動させたといわれる丸木・赤松さん等、この計画案の熱心な支持者達とともに、戦争のない永久平和を祈念するおなじ願いの民衆の洽き協働によって、またぜひともそういう成り立ちからでなければできない建物であると思つている。 (1955年3月)
残念ながらこの計画はいまだに実現することなく半世紀が過ぎてしまった。
今と言う時代は、「哲学の貧困」と言える時代かもしれない。いつから日本人は「哲学」から遠ざかってしまったのだろうか・・・?(たんに個人的な感想)
原爆堂計画の画像は⇒http://udf.jugem.cc/?day=20060806
[days] 実りの夏
「イルピアット」のテラスにあるオリーブの実
熟しすぎて強烈なオレンジ色になったゴーヤー、食べるのではなくしばし観賞。でも姿がチョッと強烈!
■朝から小平霊園にお参り。【nnm-mm】が完成してから初めて目にすることになる。周りの木の茂り具合から、すでにもう何年も前からそこにあるような落ち着いた雰囲気になっていた。日曜の午前中は道もすいているので車で出かけるには調度良い。
途中、武蔵野市役所の前で「サビナシ・ルーフ」の「立てハゼ」を使った外壁の家があったので、途中下車して外観を見学。2階建てで1階はRC打ち放し。なかなか良くできていた。
早めに帰ったのでランチは「イルピアット」で、いつも期待にたがわぬ食事をすることができる。
店の前の鉢植えのオリーブに実がたくさんなっていた。我が家のミニ・ゴーヤーもせっせと小さな実をつけるが、チョッと油断をするとあっという間にオレンジ色に熟してしまう。
【吉-house】やっと工程表が出てきたが、チョッとキツイ工程なのでどうなるか、やや心配!
2 Comments
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