日本パッケージデザイン大賞2011展

[design]日本パッケージデザイン大賞2011展
MG1
JPDA展DM・建築のプレゼンテーションかと思わせるようなデザイン、中に入るものが人かものかの違いだけ・・・?
MG2
DM・担当はグラフィックデザイナーの平野敬子氏、文字は金色。
JPDA創立50周年記念の展覧会が、銀座の松屋で開催されている。JPDA(日本パッケージデザイン協会 http://www.jpda.or.jp/ )に付いては以前書いているが、2回ほど載せた展覧会はいずれも春に「見本帖本店(竹尾)」で開催されている。
●2011年2月27日「祝いのカタチ展http://udf.blog2.fc2.com/blog-entry-742.html 
●2009年4月4日「マイ・リトル・アース展http://udf.blog2.fc2.com/blog-entry-628.html 
今回の展覧会は創立50周年と言うことで、節目の展覧会と言うことになる。それにしては少し会場が狭いようにも思えるが、「銀座」と言うことを考えれば「そうなのか」。だが、本来であれば公的な「デザイン・ミュージアム」のようなものが存在していて、「デザイン」と言う分野がもう少しきちっと評価されても良いのではないだろうか。少なくとも国立近代美術館に「デザイン館」のようなものがあっても良いのでは。「工芸館」があるのだから、「建築館」と「デザイン館」は是非とも必要だ、そのことはいろいろなところで言われてはいるが、文科省も経産省もそんな動きは無い。どちらも、お金が儲かり、天下り先がたっぷり確保できる原発にはことのほか熱心だが。「建築館」に付いて言えば国交省もいたって無関心のようだ。
それはさておき、今回の展覧会の紹介は日本デザインコミッティーのHPに紹介が載っている(http://designcommittee.jp/information/2011/6761953-jpda502011.html)。
大賞は「然花抄院http://zen-kashoin.com/zenconcept.htm のパッケージで、デザインは金賞の佐藤可士和氏を押えた、荒木志華乃氏+村山利幸氏+多田瑞穂氏。 詳細は⇒http://www.jpda.or.jp/activities/award/pd2011/pd2011.html
50周年記念シンボルマークは⇒http://www.jpda.or.jp/jpda50th/50th_mark.html いずれの作品もレベルが高く審査も難航したとあるが、そんなに悩むほどではないと思うが、何で難航したのか・・・、確かに選ばれた作品は良いと思う。 
■会場:銀座松屋7F・デザインギャラリー1953
■開催日:2011 年5月18日(水)〜6月13日(月)
■時間:10:00〜20:00
■入場無料
[days] 高圧洗浄
高圧洗浄
簡易的な高圧洗浄機を購入して除染を試みる。素人向けとは言え高圧洗浄機の威力は大したもので、ウッドデッキが見違えるように綺麗になった。建物の洗浄や車の洗浄にもかなり効果がある、「使える機械」だ!
線量
仕事部屋は2階、0.05μSv/hでバックグラウンド値
■5月はblogを書いている時間が無いと言うか、なんとなくあわただしく過ぎてしまい、今日blogをチェックしたら「広告」が入っていたので、急遽書くことにした。まあ、「広告」が入っていてもかまわないし、全く書かない「月」があっても良いのだが、計画案作成の合間を縫って少し書くことに。それに、5月の3日に載せる予定だった下書きもあるので、それも載せることに。
■原発を巡る動きの一つに子どもの被曝の話があるが、文科省の20ミリシーベルト騒ぎも、やや良い方向に動いているように見える。しばらく前にテレビで、この20ミリシーベルト関連のニュースで、文科省の役人と保安院の役人が並んで記者会見している様子が放送されたが、保安院の担当者が「20ミリシーベルトで良い等と言ったことは無い」とはっきり否定すると、文科省の役人は苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。保安院(原子力安全委員会の間違いでした)が良いと言ったからそうした(新聞では、原子力安全委員会の話も出ている)、と言った感じで文科省は言い逃れてきたわけだから、目の前ではっきり否定されては何も言えないのは当たり前だ、が、どうしてすぐばれる様なウソを平然と言い放って平気でいられるのか、どうもその神経が良く分からない。それにしても、プルトニウムの状況や海の汚染、農作物の正確な汚染状況など、全く分からないまま(公表されないと言うことだろうが)のことが多すぎる。このままでは日本の将来はどうなってしまうのか、とりわけ幼い子供たちや若い人の将来は・・・。
■中部大学の武田先生がblog(http://takedanet.com/)で言っているように(最近はマスコミにも登場しているようだが)、身近な場所の除染を試みた。幼い子供が遊びに来るので、デッキやコンクリートの部分を高圧洗浄機で洗い、一部だが表土を削ってみた。やはり効果は有るようで、高圧洗浄したウッドデッキと表土を削り取った部分は0.08μSv/h、雨水が流れて来て溜まったと思われる土は0.3〜0.4μSv/h、塀に付いた苔は0.15μSv/h、ちなみに生活している屋内は0.05〜0.07μSv/hだったが、半地下室はコンクリートの影響か0.1μSv/hという数値だった。
■5月3日に載せようとしていたこと■(タイムリーではなくなったが)
[原子力発電] 憲法第25条第1項
東京新聞5月3日 1
東京新聞5月3日の記事
東京新聞5月3日-1
東京新聞5月3日の記事(つづき)
憲法第25条第1項 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する
先日「子どもの外遊び」と言うことで、福島県内の学校被曝線量基準が、1ミリシーベルト〜20ミリシーベルトとすることを文部科学省が定め、菅首相は国会の質問や地元の要望を拒否し、上限20ミリシーベルトの数値を変えないと言っているようだ。
この数値が決まるにあたっては、文科省の「担当者」と原子力安全委員会の「何人か」と議論し、その数値が決まったとされているが、議事録も無ければ原子力安全委員会の招集もなかった、という報道がある。
良く分からないのは、政府や官僚、原子力安全委員会などの専門家は、福島の子供たちをどうしたいのか、「出来るだけ放射能を浴びないように」と考えているなら、福島県の小学校の校庭の被ばく線量が高いからと言って、それに合わせて許容値を上げるのではなく、郡山市が行ったように校庭の汚染土壌を除去するとか、子供たちにとっては大変なことだが一時避難させるとか、何らかの対策を取らなければならないはずだ。
何もせずに、汚染されていく状況に合わせて、辻褄合わせのように数字をいじって、現実的には子どもや住民を犠牲にしていく。その一方で、原子力発電所の設置を甘い基準で認め、大変な事態になっても何ら責任も取らず、「小佐古氏が何に憤慨しているか分からない」などとあいも変わらず、無神経な発言を繰り返す「専門家」が大きな顔をしている、どう考えてもどこかおかしいと思うのだが・・・。
今日の東京新聞の社説に「試される民主主義」と言うテーマで、憲法第25条第1項についてふれられている。まさしく、福島県の子どもたちの問題は、憲法第25条第1項で保障された権利が踏みにじられている状態そのものだと思う。
憲法記念日にこのようなテーマでblogを書かねばならないことは残念なことだが、政府や官僚、「専門家」が余りにも憲法を踏みにじる行為におよんでいる現実を見ると、やはりおかしいのではないかと考えざるを得ない。
少なくとも国家公務員は採用時に「憲法を遵守」することを誓約しているはずである。誓約したことはきっちり守らないと、「コンプライアンス」については毎朝ミーティングで確認しても、一番重要な憲法を遵守しないのでは話しにならない。
今回の事故で、原子力発電所は、憲法第25条第1項にとって大変な脅威になっていることがはっきりしたのであるから、徐々にでも良いから、エネルギー政策を、原発から自然エネルギーに転換していく道を選択すべき時になったのではないかと思う。
[days] おかしな看板
東京新聞 看板
東京新聞の上記記事の拡大
東京新聞5月3日鯉幟
東京新聞の時事漫画(親の鯉だって気をつけないと・・・)
避難to
関西に避難する、極々々近しい知人の極々々近しい知人。住み慣れた土地を離れての避難生活は出来れば短期間にしたいものだが・・・。3月12日に第一次避難、3日後に第二次避難、その翌日第三次避難で関西へ。
■福島市の「信夫山子どもの森公園」に立つ看板が、今日の東京新聞に載っていた。内容は以下のとおり、

信夫山子どもの森公園につきましては、4月22日の環境放射線量測定の結果、基準値を上回ったため、公園利用にあたっては次の点に留意して下さい。
○公園の利用は、1日あたり、1時間程度としてください。
○公園の利用後は、手や顔を洗い、うがいをして下さい。
○砂場の利用は控え、土や砂を口に入れないように注意して下さい。

と言った内容だが、この公園では1時間しか遊べないとして、次の汚染された公園でまた遊ばないとは限らないし、公園の往復はどうするのだろう、子供に「利用は控え」と言っても、どんなものか。基本的にどこかおかしい!この看板を作った人も完全に混乱している、書いていて疑問を持たないとしたらそれもまた凄いことだ。
■そろそろ鯉幟を上げたい時期、と言うか例年で有ればとっくに鯉幟を出しているが、今年は出して良いのか悪いのか、出して被曝してそれを家にしまって・・・。何でこんなことを考えなくてはいけないようになってしまったのか。


About this entry